開店から1年 [Diary]
2013年3月4日は「陽のあたる道」が生まれて1年目にあたる日でした。ちょうどこの日はお店が定休日だったので、お店の常連さんの自転車タクシー(シクロポリタン)に乗りに行ってきました。
赤レンガ倉庫近くの万国橋をスタートして県庁前や馬車道などを通過して帰ってくる観光ガイド付きプチ周遊コース。気温は10度ぐらいでしたが、風も弱くそんなに寒さも感じず快適な小さな旅でした。
【運行エリア】
みなとみらい、観覧車、赤レンガ倉庫、大桟橋、山下公園、中華街、元町、
横浜駅東口ベイクオーター、桜木町駅、関内駅、石川町駅 など
【運行日時】
平日10時〜17時
3月からは平日+日曜祝日も運行 土曜お休み
【運行プラン・料金】
http://cyclopolitain-yokohama.jp/route/
【乗れる場所】
お電話一本で運行エリア内どこでもお迎えにうかがいます。
お気軽にご連絡ください。
【お迎え依頼・予約・問合せ など】
電話 090-5547-8340 (当日依頼可)
メール ken19780405@docomo.ne.jp (前日依頼まで可)
新年のご挨拶 [Diary]
あけましておめでとうございます。2012年の年賀状です。
2011年に起こった地震、津波、原発事故により、不安や苦しみの中での生活を余儀なくされている多くの人々に一日も早く幸せが戻りますように。
そして私事ですが、今年3月に自家焙煎珈琲店をオープンすることになりました。一人でも多くの人に美味しい珈琲をご提供できるよう精進していきます。
今年もよろしくお願いいたします。
ボランティアバス_宮城61便 (Dec.23-25,2011) [Diary]
神奈川災害ボランティアネットワーク(KSVN)の今年最後のボラバスで宮城県女川町に行ってきた。23日夜9時横浜出発、25日朝5時帰着の車中2泊、現地1泊の旅。僕とって今回で6度目のボラバスだが、今回はクリスマスイブに開催される運動会のお手伝いということで、はじめてのガテン系でないボランティア。5000人の町民の6割が仮設住宅で暮らすという女川町の小中学生と親御さん、お年寄りが、10月まで避難所として使われていたという体育館にたくさん集まり盛大なイベントだった。(上の写真は、サンタのスタッフ衣装をまとった神奈川チーム。KSVNホームページより)
被災地では震災で運動会などの地域行事が中止されたことから、サッカーの松井大輔選手が中心となって運動会復活プロジェクトを発足、多くの団体や企業の支援を得て開催された運動会だった。松井選手の他にも、駒野、槙野、伊野波、安田ら海外やJリーグで活躍する選手に加え、棒高跳びの沢野大地選手も参加、子供たちは大喜びだった。その日の石巻日日新聞にさっそく記事になっていた。(石巻日日新聞⇒http://www.hibishinbun.com/)
神奈川から参加したボラバスチームは、体力測定班と、炊き出しのお手伝いの班に分かれて活動。参加者にカレー、豚汁、お汁粉などを運ぶ炊き出し班に加わったが、昼食時はてんてこまいの忙しさで、供給が追いつかなくなるほどだった。しかし、ボランティアに参加する人たちの知恵とチームワークにはいつも感心させられる。今回も、運ぶトレーが少ないとみるや、ダンボールの箱を利用して俄かトレーをいくつも作りだし、これがデリバリーに大いに役立った。
我々ボランティアは体育館での競技や、サッカーのミニゲームなどを観戦することはできなかったが、子供たちの笑顔と元気な姿にたくさん接し、はじめて、人と触れ合うことができた貴重なボランティア経験となった。
午後4時半運動会の後片付けをすませ、現地を出発したボラバスは、石巻市内にある「がんばろう!石巻」の看板の前に停車して全員で黙祷を捧げた。
ボランティアバス_岩手38便 (Oct.27-30,2011) [Diary]
久しぶりのボラバス報告です。
前回は8月8日~12日の岩手22便だったので2ヵ月半ぶり、季節の変化とともに現地はどのように変わってきているのかなという興味を抱きながら、いつものように横浜天理ビルの前を午後9時に出発しました。嬉しかったのは、岩手22便で一緒だった2名の方がわざわざバスの見送りに来てくれたことでした。(お菓子の差し入れもありがとうございました)
35名を乗せたバスは快調に走り、午前6時前には道の駅「遠野 風の丘」に着き時間調整してから午前6時半にかながわ金太郎ハウスに到着しました。作業着に着替えて「遠野まごころネット」にマイクロバス2台で移動。いつものようにラジオ体操、朝礼後1日目の作業場所である大槌町赤浜地区に向かいました。
この日は家屋が流され土台だけ残った美容院だった場所の瓦礫の撤去。海のすぐそばで、「ひょっこりひょうたん島」が見えます。
下の写真は、お昼休みに伺った仮設の酒屋さんで撮らせていただきました。ひょうたん島の見える場所で、酒屋を営業されていたご主人は、小さな仮設店舗を復活させ、かつて建っていた灯台と鳥居を復元したひょうたん島の絵をお店の壁に貼っておられました。
現在、新しい灯台のデザイン募集中とかで、ご主人も応募されたそうで、私たちに絵を見せてくれました。(ちょうどこの日の朝、NHKの「あさイチ」でこの場所から中継があったそうです)
1日目の作業風景(KSVNボラバス速報より)
2日目は、前回も作業した陸前高田市気仙町上長部地区での作業でした。ここでは畑の瓦礫撤去と杉林の中の瓦礫撤去に分かれての活動になりました。僕は杉林組でしたが、水産加工工場だった場所から流れついた魚がまだ大量に埋まっているとのことで、プラスチックケースなどの掘り出しでの悪戦苦闘とともに、今までに体験したことのなかった臭いとの闘いにもなりました。震災後7ヵ月過ぎてもこうした場所が残っていることに少なからず驚きを覚えましが、現地リーダーの話によれば、このあたり夏の時期にはもっとひどい悪臭と大量に発生した蝿に悩まされていたそうです。
(写真は作業風景と集められた瓦礫)
嬉しい話もあります。近くのグラウンドで少年野球チームが元気に練習をしていたことです。ここもこれまでボラバス参加者が瓦礫拾いして整地をしてきた場所です。グラウンドとして利用できるまでにもなったことに感慨ひとしおのものがあります。(写真はKSVNボラバス速報より)
最終日は、朝到着した「茅ヶ崎社協便」を出迎えて彼らにボランティアの”タスキ”をつなぎ、清掃後は遠野散策等各人思い思いに過ごし12時半に金太郎ハウスを出発。途中断続渋滞もありましたが午後10時半に横浜に戻ることができました。
久しぶりのボラバス参加。少しずつ復興への歩みが始まっていることを感じた半面、まだまだ息の長いたくさんの支援が必要なことをあらためて感じた旅でした。ボランティアの数が減ってきているのは事実でしょうが、今回のボラバスにも初参加の方が何名もいました。一歩を踏み出すのに遅すぎることは決してないと思います。忘れないで、つなげていくことが大事なことなんだと強く感じた旅でもありました。
岩手38便のみなさんお疲れさまでした!
ボランティアバス_岩手22便 (Aug.08-12,2011) [Diary]
8月12日の早朝に横浜に帰ってきて、翌日に妻の実家の岐阜に帰省していたので遅くなってしまいましたが、先週のボランティアバスの記録を残しておこうと思います。
神奈川災害ボランティネットワーク(KSVN)の運行するボランティアバスに乗って行く被災地支援活動はこれで4回目。8月8日の夜に出発して12日の朝5時に横浜に帰ってくるというスケジュール、車中2泊現地2泊の旅でした。
運営スタッフ含めて37名は、8月8日の午後9時に横浜天理ビル前を出発。車内では順番にマイクを回して自己紹介をします。夏休み期間中ということもあり、大学生と学校の先生が多く参加されていました。何度もボランティアに参加している人もいる半面、半数の方は初めての参加とのこと。震災から5カ月、被災地のために何かしたいと思いながらもなかなか休みがとれず、ようやく夏休みの期間を利用して参加できた、との思いも伝わってきます。中には名古屋在住で、東京出張の日程に合わせてKSVNのボラバスに応募して参加された方もいらっしゃいました。
バスは、東北自動車道の本宮―二本松間の事故による通行止めで、一般道に降りて回り道をした影響で時間をロス。予定より1時間遅れくらいで岩手県遠野市にある「かながわ金太郎ハウス」に到着しました。
(ちょうどこの時期、倒れた高田松原の松を京都の五山の送り火で焚くことについて大きなニュースになっていました。現地の人はどんな気持ちだったんだろうと思わずにいられません)
この作業は12日まで連続8日間続いたそうです。遠野まごころネットのHPにその模様が載っていました。
以下、今回回った主な場所です。
遠野駅(左)と駅前通り(右)
「遠野物語」を著した柳田國男が滞在した高善旅館を移築保存した「柳翁宿」
ボランティアバス_山田4便 (Jun.30-Jul.03,2011) [Diary]
過去2回は夜行日帰りの「弾丸ツアー」に参加したボランティア。神奈川災害ボランティアネットワーク主催としては初めての泊まりがけのボラバスで岩手県山田町に行ってきました。
山田町(やまだまち)は、宮古市と釜石市の間にある町で、人口1万8千人、7月5日現在、死者585人、安否不明128人、25箇所の避難所に1929人が避難中。住宅のうち46%にあたる2789棟が全壊。
山田町災害ボランティアセンターの置かれているB&G海洋センターは船越家族旅行村のそばにあり、われわれが宿泊場所としていた体育館から少し上がったところにあるオートキャンプ場には個人のボランティアが長期に滞在し、毎日の作業に加わっています。作業終了後の温水シャワーもこのキャンプ場で利用させていただきました。今回の地震津波さえなければ、まさに風光明媚なリゾート地として何日でも滞在したくなるような美しい所です。しかし、ボランティアセンターのすぐ下にあった老人保健施設「シーサイドかろ」では施設全体が津波にのみ込まれ、利用者74人と職員14人が死亡・行方不明となったそうです。いまだに建物の2階部分に流された車が残されたままの無残な姿に胸が痛みます。
岩手日報のWebNews⇒http://www.iwate-np.co.jp/311shinsai/saiko/saiko110608.html
作業終了後の杉林
杉林の地主さんからは2日間とも缶コーヒーの差し入れがあり、終了後にはお礼のあいさつをいただきました。さらに自分は口下手だからと丁重な文章での御礼状まで託されました。夜のミーティングでリーダーに朗読していただきましたが、これこそが最高の報酬です。
ボランティア参加前に受ける研修の中に、ボランティアの心構えとして、見返りを求めない・・「無償性・無給性」・・という原則がありますが、これだけの大きな感動とよろこびを得られる体験はしたくてもなかなかできないと思います。そして被災地への「思い」と「志」をもった参加者ひとりひとりが、主体的に行動し、創造性を発揮しながら連帯を深めていく過程も大きな魅力のひとつです。20歳の学生から最高齢68歳までの自発的に集まった男女36名が、ひとつのチームとして機能する、そこには「長幼の序」などを口走る輩はひとりもおらず、ただひたすらに被災地のことを思う心だけがあるのです。
神奈川災害ボランティアネットワークの「宮城・岩手 被災地支援ボランティアバス」参加者募集についてはこちらをご覧ください。
http://ksvn.jp/category/news/volunteer_comeon
ボランティアバス_岩手便 (Jun.03-05,2011) [Diary]
5月の宮城県東松島市行きボランティアに続き、車中2泊の岩手県行き「弾丸ツアー」に参加してきました。前回のボランティアから帰ってまもなく神奈川災害ボランティアネットワークから、東松島市行きのバスの追加募集に加えて岩手行き2便の募集があったので応募したものです。
今回はスタッフ含めて35名の参加(男性20名、女性15名)、前回同様ボランティアバス初参加という方がほとんどでした。6月3日金曜日の午後9時に横浜天理ビル前を出発したバスは、翌朝6時半ごろに現地のボランティア拠点になっている「遠野まごころネット」のある遠野市総合福祉センターに到着。(遠野まごごろネットのHP⇒http://tonomagokoro.net/)
撮った写真をデジブックにまとめておきます。(クリックすると別ウィンドウが開きます)
この日割り当てられたのは、津波に流され田んぼに散乱する木材や板きれ、衣類、日用品のかけらなどをかき集め一箇所に集積する作業(集められた瓦礫はのちに重機で撤去されるとのこと)。現地リーダーのもと、汗だく泥だらけになりながら悪戦苦闘の結果、田んぼ3枚分終了。復興・復旧の道のりからすれば取るに足らない作業かもしれませんが、こうした小さな作業の積み重ねがなければ復興もありえない。そしてそこには多くの人の力が必要とされている(今回も男全員がかりででようやく動かせる柱などがありました)。被災地のいたるところでこのような地道な作業をしている人がいることに常に思いを寄せながら、これからも自分にできる限りのことを継続して行っていきたいと思います。
前回のボランティアバス宮城便はその日のうちに横浜に戻らなければならなかったので、作業終了後はあわただしく出発しなければならなかったのですが、岩手便は距離も遠いことから、翌朝の始発電車が出る時間までに戻ればいいということで、時間に余裕もあり、帰り道東北自動車道入口付近の日帰り温泉施設で汗を流すことができ、心身共にリフレッシュして帰路につきました。
ボランティアバス_宮城便 (May.20-21,2011) [Diary]
「神奈川災害ボランティアネットワーク」の、夜行日帰り被災地支援ボランティア活動に参加し、宮城県東松島市に行ってきました。夜行日帰りの文字通り、夜の7時半に横浜をバスで出発し、翌日現地でボランティア活動、午後の3時半には現地を出発、午後10時過ぎに横浜に帰着の強行軍。現地での作業は休憩除くと実質4時間ぐらいしかできませんでしたが、それでも行っただけの成果はあったと思います。
参加したボランティア37名は、大学生から60代まで幅広い年齢層で、女性も半数近く占めていました。現地に着いたら雨で、一時は待機、そのまま作業なしで戻るはめになることも心配されましたが、運よく晴れて暑くなりました。4班に分かれて作業箇所を分担、私の加わった班では、3月11日の津波で建物は流されなかったものの、海の水に浸かってしまいそのまま2ヶ月間手つかずで残されていた駐車場や倉庫から泥を掻きだす作業を行いました。スコップで泥をすくい土のう袋に入れる作業、これが日ごろの運動不足の身にはつらい。すぐに汗だくになるし、腰は悲鳴をあげるしで、適宜役割を分担しながら作業を進めていきました。特に倉庫にたまった泥はドロドロのヘドロで、大人数での人海戦術がなかったらとても掻きだせなかったでしょう。一人ひとりの力は小さいかもしれないけれど、みんなの力を合わせれば不可能も可能になるんだということを今さらのように実感し、感動しました。
東松島市では、1033人が死亡、約320人が行方不明、約2430人が避難生活、住宅約4740棟全壊(5月21日現在、警察庁まとめ)という地域で、今回行った場所は仙石線陸前赤井駅(現在不通)の近く、テレビでよく見たような一面ががれきの山という風景ではありませんが、いたるところに地震と津波の爪あとが見られました。住居は残っていても、泥が掻きだせないままになっているところがまだたくさんあるようです。昨日だけでも、滋賀県、岐阜県からの大型バスを含め、たくさんのボランティアが現地に入って活動を行っていました。
「神奈川災害ボランティアネットワーク」(⇒http://ksvn.jp/)では5月から6月にかけて8回に分けてボランティアバスを運行、すでに募集は締切られていますが、その後もさまざまな形での支援活動を行っていくとのことです。機会をみてまた参加したいと思います。
なお今回のボランティアの模様は上のサイトに速報として掲載されています。
http://ksvn.jp/news3326.html
ヘドロを掻きだした倉庫
安達太良SA(福島県本宮市)にて
旧古河庭園 (Feb.10,2011) [Diary]
毎週木曜日午後10時からNHK総合で放送されている「ブラタモリ」は、タモリとNHKの久保田由佳アナウンサーが2人で東京の街を歩く番組ですが、地形や歴史にフォーカスしているところが面白く、そして勉強になります。昨日放送された「赤坂(完全版)」では、以前勤めていた会社のとなりのビルにある薬局が出てきたりして懐かしい思いで見ていました。
旧古河庭園に行ってみたいと思ったのも、1月の「池袋・巣鴨」の放送の中でこの庭園が紹介されたからです。京浜東北線・上中里駅で下車、徒歩7~8分の場所にある約3万平方メートルの広さをもつこの庭園は、番組の中で、台地の斜面と低地という地形を利用した洋と和が見事に調和した庭園であると語られていました。その言葉通り、和の日本庭園は、京都の庭師が作庭、池を中心に高低差を活かした設計で、優雅で美しい庭園でした。洋風庭園は、今の時期は寂しいですが、春と秋には大輪のバラが花を咲かせるそうで、さぞや綺麗だろうと想像できます。
北側の小高い丘に建つ洋館は、旧古河財閥の古河虎之助氏の住いとして大正6年(1917年)に建てられた、延べ床面積414坪という大きな邸宅。あらかじめ往復ハガキで見学の予約をしておいたので本邸の内部をガイドの説明を聞きながら約1時間見学することができました。こちらの建物にも和洋の調和が施されており、2階にあがるとホールからはすべて洋室としか見えないのに、ドアを開けると畳の和室がいくつもあるなど、とても興味深く見学することができました。この洋館と洋風庭園の設計者は、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸などを手がけた英国人建築家ジョサイア・コンドル氏で、彼の晩年の代表作だそうです。
花の咲く季節にまた訪れてみたいと思いながら庭園をあとにしました。
感謝 [Diary]
妻の母親が亡くなったとの報せは、名古屋に単身赴任している弟からの早朝の電話を妻自身が受けた。あとで気が付いたら実家に同居している弟の奥さんから携帯に何度も着信記録があったそうだ。
まったく予期していなかった電話に妻は動転、寝床でそのやりとりを聞いていた僕は飛び起きた。
あわただしく荷物をまとめ、タクシーを呼んで新横浜へ。のぞみに飛び乗り、名古屋のりかえ、大垣からさらに養老鉄道揖斐線で20分のところ、1時間に一本しかない電車に乗るのに40分も待たされるはめになった。しかし最期に間に合わないことはわかっていたので、タクシーで一刻も早く駆けつけることまではしなかった。
義母は前日の夜、日帰り旅行から深夜に帰宅、お風呂に入ってから心筋梗塞を起こし帰らぬ人となった。死亡推定時刻5月19日午前0時0分。今年の10月には77歳、喜寿のお祝いをしようと考えていた矢先のできごとだった。
実家に着いたら義母は、枕元のお線香と顔にかけられた白い布さえなければ、眠っているのと変わらぬ様子で寝床に横たわっていた。次々と訪れる親戚や近所の人たちが、信じられない、と泣きながら、返事をしない義母に呼びかけている。
葬儀を自宅で行うことは、10年前に2世帯で同居するために家を新築した両親の希望でもあった。新築して間もなく亡くなった父親の葬儀もこの家で行われた。そして10年後の今回も。通夜が翌日、告別式が翌々日と決まり、2人の姉弟は肉親を失った哀しみに浸る暇もなくあわただしく動きまわり、しなければならない決断をしていった。
通夜・告別式の当日は、前日まで降り続いた雨がきれいに上がり初夏の陽気となった。まるで参列者に不便をかけないようにと義母が天に願いを掛けてくれたかのように。喪主である妻の弟のあいさつが、親族や参列者の胸を打った。
「母は趣味も多くたくさんの友人にも恵まれた。そして共稼ぎである自分たちにかわって孫の面倒を見てくれて、大学生と高校生になるまで立派に育ててくれた。これまで母がしてくれたことに『ありがとう』を言えなかったことだけが悔いとして残る。」
お導師さんの読経に唱和するのが田舎のならわし。その最中に甥っ子たちの手により納棺の儀式、身近な”おくりびと”により棺に横たわった義母に、妻が最期のお化粧を念入りに施す。そして掛けた言葉が蘇る・・・・「ありがとうね。お母ちゃん!」
流れ星の ふりそそぐ 白い夜の舟で
消える御霊 見送りながら
心からの感謝を
深い川を 越えたならば わたくしも 戻らぬ
だから 今が 大事すぎて 幕が降りるまでは
恨みつらみ 語りつくして
心からの 感謝を
恐がらないで 顔を上げて 見守っているから
陽はまた昇る 昨日のことは 振り返らないで
次第次第 うすれる意識
さらば 愛しき者よ
『感謝』 詞:きたやまおさむ 曲:加藤和彦