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北の国から その2 [Diary]

3日目(8月7日)
今回の旅、雨にはそんなに祟れませんでしたが、霧で景色が見えないことが多かったです(極めつけは摩周湖!)。それから星空も見られなかったなぁ。
層雲峡の標高1984m黒岳のロープウェイで5合目まで登りましたが霧が深く、リフトには乗らず引き返し、近くの滝を見て早々と次の目的地(知床半島)に向かうことにしました。
 

 

途中、「北きつね村」というところに寄って、北きつねと戯れたあと、カニが安いから買って行けと迫られましたがお断り。きつねは人寄せに使われているだけ?
 

結局この日は、あと知床のオシンコシンの滝を見ただけ。だんだんホテルに到着する時間が早くなってきているのでした。
 

ホテルに着けば温泉に入って食事をするだけ、飲んだら眠くなって早々と床につく。規則正しい生活なのでした。

4日目(8月8日)
知床半島を海から眺めるクルーズに参加。カムイワッカの滝までの往復1時間のコース。雄大な自然に感動。










終わって半島の地上をドライブ。知床五湖の散策を試みるも、行方不明者が出て捜索が行われており、遊歩道は立ち入り禁止、湖の一つだけしか見られず。帰りに岩尾別温泉に寄り道して知床をあとにしました。

この日の宿泊は川湯温泉。屈斜路湖畔の国民宿舎にぶしの里。3時には着いてしまい、部屋に荷物を置いてから、屈斜路湖畔の砂湯とアイヌ民俗資料館を見学。


北の国から その1 [Diary]

昨日、6日間過した北海道から帰ってきました。
北海道でも30度近くになり、日差しが強いときもありましたが、こちらのようなべたつくような蒸し暑さは全然なく快適。テレビの天気予報では連日東京地方34~5度の猛暑が伝えられ、片や北海道地方は、毎日曇りと雨のマークばかりでしたが、幸い傘のお世話には一度もなることがありませんでした。
今回はどんべえにとってはじめての北海道、旭川まで飛んで、富良野~層雲峡~知床~川湯~摩周湖~阿寒湖~釧路というプランに沿ってレンタカーで回ってきました。僕にとっても30年前の冬に流氷を見に来て以来の道東でした。


1日目(8月5日)
レンタカー(スバル インプレッサ) 全行程865km無事完走しました。


旭川空港から最初の目的地としてカーナビにセットして着いたのは「美瑛駅」。駅前の定食屋で食べた昼飯はカツカレーでした。
 

ぜるぶの丘


ケンとメリーの木(BuzzのCM Songで有名に)


美瑛から富良野に移動。
TOMITA FARMのラベンダー畑、ラベンダーは盛りを過ぎていましたが、お花畑はとても綺麗でした。




 2日目(8月6日)
「森の時計」。倉本聡の作品でテレビドラマ「優しい時間」の舞台になった喫茶店。今回一番行ってみたかった場所です。新富良野プリンスホテルの敷地内にあり、人気のスポットになっているようで、開店の10時に行ったらすでに行列が、9席しかないカウンターに座るために30分待ちました。
 

テーブル席もあるのですが、カウンター席を待ったのはドラマと同じように、コーヒーを頼むと豆を自分でミルで挽いて飲むことができるのです。毎朝家でも同じように挽いて飲んでいるのに北海道に来てまでと思わないでもないですが。
ドラマで大竹しのぶの座った席で豆を挽き、マスターの寺尾聡ならぬ若いおねえさんが淹れてくれました。コーヒー520円美味しかったです。
 

今は観光客向けになっていて常に行列ができているようですが、壁にかかった額のように、ひとりでゆっくりとした時間を楽しめるといいでしょうね。
 

同じ森の中にある「ニングルテラス」の手作りの小物などを売るお店を見てから
「北の国から」のロケ地めぐり。テレビドラマは見ていなかったので、ここでは感激はなかったけれど、DVD借りて観てみようかなという気になりました。

左)五郎の拾ってきた家:スキー場のゴンドラや、バスなど廃棄されたものを組み合わせて作られた家
右)五郎の石の家
 

車は一路層雲峡へ(こんな道が延々とつづくのでした)


37年ぶり~「高校野球というドラマ」 [Diary]

今年の夏の甲子園は37年ぶりの決勝戦引き分け再試合で盛り上がりました。2日間にわたる激闘を制して頂点に立ったのは、「ハンカチ王子」と呼ばれて人気を集めた斉藤投手擁する早稲田実業でした。
1対1の引き分けに終わった試合は8月20日の日曜日、野反湖フィールドフォークコンサートの翌日、草津温泉からの帰り、関越自動車道に乗るころにはじまり、車のラジオを聞きながらハラハラしながら運転していましたが、ついに試合が終わる前に家に着いてテレビで結末を見ることができました。

37年ぶりの再試合ということで、さかんに取り上げられたのが、あの三沢と松山商業の決勝戦です。そのときちょうど中学3年生だった私は、あの試合をテレビで観戦していました。そしてそのときの感動を、卒業するときにクラスで作ったガリ版刷りの文集に「高校野球というドラマ」というタイトルで書きました。黄ばんだワラ半紙に印刷された文字は、37年の時を経て、薄くなってはいるものの十分読めました。あらためて読み返してみると、あの試合が鮮明に蘇ってきます。赤面ものの拙い文章ですが、記録として残す意味で、37年ぶりに再録します。

   

 

「高校野球というドラマ」

 昭和44年8月18日。全国高校野球選手権大会決勝戦である。夏休みの単調な生活にしびれをきらしていた少年にとってこの日は忘れられない日となった。
 少年は、きょうは決勝戦があるというので勉強も朝のうちに片付け胸をわくわくさせながらゆったりとテレビの前に腰をおちつけた。
 彼は高校野球が好きだった。中学の野球部にはいっているくらいだからもちろん野球は好きであるが、なによりも高校野球が好きだった。あの純真なプレー、若さあふれるファイトそして正々堂々とした態度はいく度か彼の心を感動させたものだった。
 午後1時である。サイレンとともに青森代表・三沢高校と愛媛代表・松山商業の対決の幕が切っておとされた。試合は投手戦を予想されていたがその通り熱のこもった試合となった。前日までの4試合を一人で投げ抜いてきた三沢の太田がきょうもあの華麗なフォームからビシビシとキャッチャーのミットにおさめれば、これに対する松山商の井上は精密機械のようなコントロールで三沢の打者をしりぞけた。力の太田に対して技の井上、息もつかせぬ二人の投げ合いでスコアボードには、つぎつぎに0がきざみこまれてゆく。ついに延長。0以外の数字をスコアボードに入れたほうの勝ちだ。しかしどちらもゆずらない。甲子園の5万5千の観衆と一緒になって少年はただ一心に両チームのプレーをくいいるようにして見ていた。回を重ねても両投手の球威はおとろえず、それを盛り立てるかのようにバックはたびたび目を見はらせるようなファインプレーをする。しかし両チーム18人の体力は限界をこえ気力で戦っているのだ。
 15回裏三沢の攻撃。先頭の菊地がヒットで出た。当然の送りバント。だが完璧の松山内野がエラー、続く谷川は送って一死2・3塁となった。少年は「やっと終わる、三沢の優勝だ」と内心ホッとした。スクイズでも外野フライでも1点入るからだ。松山は満塁策をとり、立花と勝負に出たが、井上は急にコントロールを乱しボール3つを続けた。絶対絶命、少年の心臓の動きは最高潮に達していた。しかし奇跡とでもいうのだろうか、井上は冷静にストライクを2つ続け6球目を打たせた。投手ゴロだ、が井上のグラブをはじいて球はショートのほうへ。「やった」と少年は思った。しかし、その後バックアップしたショート樋野の矢のようなバックホームによって一瞬の夢は消えた。ワーッとわきあがる歓声、まるで台本に書かれていたような劇的なシーンだった。
 16回裏、三沢はまたもや二死満塁のチャンスをつかんだ。こんどこそ少年は思う。だがここでも井上が投げ勝った。奇跡ではない、根性の投手だった。
  18回、アナウンサーは「この回が終了して両チームに得点がない場合は、大会規定により引き分けとなります」と伝える。
 「どうかどちらもヘマをしないでくれ。」三沢を応援していた少年も、もう今となってはどちらも負けさせたくない気持ちに変わっていた。太田の2盗が失敗して長かった試合は引き分けを告げた。 と、ともにスタンドに大きな拍手が起こる。「よくやった」 「よく頑張った」 もう敵味方の区別なく、グランドにいる18人に対する拍手だ。
 ついにスコアボードは0だけしかしるされず、ホームを踏んだ者はなかった。死力をつくして闘った両チーム。少年はテレビの前でぼう然としているだけだった。そしてしばらくして胸にこみあげてくるものを感じていた。時計は5時20分をさしている。ランニングシャツ一枚でテレビの前にすわりつづけていた少年にとっては、すずしさを感じる時間だった。
 今でも少年は忘れないあの日。そして今でも誇りにさえ思う、その試合を見れたことを。


初勝利!! [Diary]

先週に引き続き、秋晴れの昨日の日曜日もソフトボールの試合でした。先週逆転サヨナラ負けを喫した相手(フライヤーズ)に11対5で快勝!今シーズン初勝利をおさめたのでした。相手の戦力が先週に比べ相当落ちていたのは確かですが、こちらもいつもの主力メンバーを欠きながら、ついに勝利の美酒(発泡酒500ml缶)を味わうことができたのでした。
ちなみに、負けたときは350ml缶で、あまり変わらないのですがね。でも、勝って飲むビールの美味さは格別です。


惜敗! [Diary]

団地のソフトボールチームはもう20年近く続いている。「ガーデンテラス白根台」という名前にちなんでつけられたチーム名は「Gardners(ガーデナーズ)」 。同じ地区にあるチーム同士でリーグをつくり、4月から11月までリーグ戦を行っている。以前は何度も優勝したことがあるのだが、最近は勝利からは完全に遠ざかっている。それもそのはず、設立当時は比較的若い選手でなりたっていたチームも、選手の高齢化に伴い、若い選手を多く擁する他チームには歯が立たなくなっているのである。

それでも昨日の日曜日は善戦した。今年は天候が悪く試合の消化も少なかったことから、ダブルヘッダーが組まれていた。
1試合目は、6対5でリードし、最終回の裏を迎え、この回をおさえればいよいよ今年の初勝利!と色めきたっていたところ、ランナー一人を出して、3番バッターにサヨナラホームランを浴びて逆転サヨナラ負けを喫してしまった。それにしても見事なホームランだった、敵ながらアッパレ。
2試合目も、最初はリードしたものの、結局2-6で敗戦。
2試合とも、うまくやれば勝てたかもしれない試合だったことは残念であるが、一桁の失点におさえることができたことと、誰もケガのなかったことが何よりであった。いい年のおっさんがいまだにソフトボールに集まってくるのは、体を動かして何かしたいということと、終わってから飲むビール(予算がなくて発泡酒だけど)が旨いからなんだなぁ。

久しぶりにグランドを走った翌日は、筋肉痛で階段の昇り降りがつらかった。


カップ・オブ・サン [Diary]

7月17日宵々山コンサートの翌日、京都は大雨。宿泊した駅前のホテルから京都駅まで歩いて行くのもためらわれるほどの強い降り。昨日も降られはしたけど、コンサートが今日じゃなくて本当によかったと思うほどだった。でも今日は祇園祭山鉾巡行の日だ。見るほうも、やるほうも大変だなと思いつつ、今日の目的は京都の北、岩倉に住む友人宅へお悔やみに伺うことだった。

先月末、文ちゃんのご主人S君が亡くなったというメールが、京都時代の仲間から突然携帯に入った。S君が病気だったことは全然知らなかったのでびっくりした。今年3月に昔のフォークソング仲間と久しぶりに会ったとき、文ちゃんとご主人はちょうどドッジボールの大会で東京に行っているということで来られなかった。小学生のドッジボールチームで文ちゃんが監督、ご主人のS君がコーチで、かなり熱を入れていたのは以前にも聞いたことがあった。

僕にとっては、奥さんである文ちゃんとのつきあいの方が長い。知り合ったとき彼女はまだ高校生だった。京都のフォーク集団「ポロ」というサークルや「WAYS」という女性3人のバンドで活躍していた。
S君は文ちゃんと結婚する前、大阪で学童保育の指導員をやりながら、中島光一さんのバックでベースを弾いたりしていた。そんな彼が結婚後、北白川に「カップ・オブ・サン Cup of Sun」というお店を開いたのは、僕が京都を離れてしばらくしてからだったろうか。市街地から少し離れたところで、注意していないと通りすぎてしまうような場所の2階にある小さなお店だったが、フォークやブルーグラスのライブやフーテナニーという集まりなどを定期的にやっていた。大きくて人を包み込むような彼の人柄で、集まってくる人は多かったようだ。たまに京都へ行く機会があったときは必ず顔を出すようにしたが、いつでも彼はあたたかくもてなしてくれた。
あれはいつの夏だったか、宵々山コンサートの前日に円山音楽堂でフォークのコンサートが開かれたが、その打ち上げでこのお店に何人ものフォークシンガーたちが集まった。その中には、高石ともやや高田渡まで交じっていた。忘れられない瞬間だった。もしかしたらS君と会ったのもその時が最後だったかも知れない。

その後京都を訪れる機会もほとんどなくなり、風の便りにお店をたたんだと聞いた。彼は四条あたりにある居酒屋でバイトしながら、小学校の先生をしている文ちゃんと、3人の子供を育てながら、ドッジボールのチームを強くすることに情熱を傾けていたようだ。最後のほうは車椅子姿でコーチをしていたと、弔問に伺ったとき文ちゃんが言っていた。亡くなって数日後に全国大会の京都の代表を決める試合があり、決勝で惜しくも敗れ代表の座を逃したことをとても残念がっていた。
いつも明るかった文ちゃんが、前日電話した時の声からして落ち込んでいるのはわかっていたが、ショックからまだ立ち直れておらず、しばらく学校の仕事も休まざるを得ないようだった。こんなときに掛ける言葉を持っていないのがもどかしい。

止むことなく降り続く雨の中、文ちゃんが車を運転してくれて地下鉄「京都国際会館前」まで送ってもらった。

S君 享年50歳。ご冥福をお祈りします。


コーヒーと綴るGWの1日 [Diary]

暖かい陽気に誘われて、東京メトロの駅に置いてある無料マガジン「metropolitana」(2006年3月号・特集:コーヒーと綴るわたしの日々)をガイドブックに東京の街を散策。

車を上野公園近くのパーキングに止めて、まずスタートは湯島天神から。上野不忍の池からこんなに近くにあるなんて初めて知った。もちろん境内に足を踏み入れるのは初めて。合格祈願の絵馬が所狭しとかかっていたが、学問の神様が忙しいのは、今や受験シーズンだけではないんだ。
 

この湯島天神の下にあるのが、今日行きたかったコーヒーの店PART1「やなか珈琲 湯島店」。ここはコーヒー豆を販売する小さなお店。選んだ生豆を焙煎してくれている間、店先のいすに座り紙カップでコーヒーを飲みながら待つこと10分。芳しい香りとともに湯島ブレンド100gができあがった。

ここから少し不忍の池のほうに歩くと、三菱の創設者、岩崎家の旧邸がある。当時は1万5000坪余りの敷地に、20棟もの建物が並んでいたというが、日本の建築史に残るとされる明治29年に建てられた洋館と和館それにビリヤード室の3棟を残すのみとなった今でも充分に広く、都会の真ん中にありながら、しばし喧騒を忘れることができる場所だ。否応無しに「三菱」の大きさを感じさせられる邸宅でした。
 

岩崎邸をあとにして帰りに向かう途中、寄ったのが、水道橋と神保町のちょうど中間くらいにある「珈琲エリカ」。”コーヒーと綴るわたしの日々”の特集のメインに取り上げられており、コーヒー好きなら絶対に行きたくなるお店。
店主は今年85歳で、昭和27年から54年にわたり、この場所でコーヒーを淹れ続けているのだ。店の内装も、ブレンドの味もオープン以来変えていないとのこと。ブレンドとクリームソーダを頼んだら、店主自らが席まで運んできてくれた。半世紀以上前から続く珈琲の味になんだか感動すら覚えた。
 
左は「metropolitana」より

 

夕暮れ迫る神保町界隈に御神輿をかつぐ威勢のいい声が。
マイミク仲間のつばめマントさんの日記で、神田三崎神社のお祭りがはじまっていることは知っていたが、お祭りを見るために来たのではないのに、偶然出くわすなんてラッキー。「9つの町会がそれぞれの御神輿をかついで三崎神社をめざす」ということだが、神保町界隈を歩く間にもいくつもの御神輿を見ることができた。でも今はプロの神輿かつぎがかついでいるんですね。
 

岩波ホールでやっている映画「家の鍵」を観て帰ろうかと思いついたが、すでに最終回が始まっており、向かいの「新世界菜館」で食事することに。上海カニみそ入りあんかけチャーハンと餃子だけでお腹いっぱい。ごちそうさまでした。

帰りの車のなかでは、つばめ軍団が巨人を粉砕。Happyなしめくくりの一日でした。


大吉 [Diary]

家内の実家に元日から里帰り、本日夜帰浜しました。岐阜羽島から乗った新幹線はUターンラッシュでギュウギュウ詰め。やはり指定を取っておくべきだった。来年はこんなことがないように、1ヶ月前には予約しようと、家内は手帳にメモしていたが、手帳を見るかどうかが問題。

家内の実家は岐阜県揖斐郡池田町というところで、大垣からローカルな電車に乗って約20分、広い濃尾平野の端っこです。今年は年末に大雪が降り50センチ以上積もったとか。駅を降りるとふだんは見られない銀世界でした。
初詣は、車で30分くらいのところにある谷汲山華厳寺。このお寺は西国三十三ヶ所めぐりの満願寺として有名ですが、一番手近なところにあるというだけで私たちは毎年初詣に訪れています。今年ひいたおみくじは、「大吉」でした。暮れの有馬記念もあたったし、少しずつ運が向いてきているのかな、なんて気分をよくしていましたが、運がよかったら新幹線も座れるのになぁ。
ともあれ、自分だけの願い事がかなえばいいということではなく、みんなが心安らかに暮せる、平和な世の中であって欲しいという願いがかなえられるような2006年になりますように。

 


クリスマスツリーその2 [Diary]

12月25日、横浜ランドマークタワーの吹き抜けロビーでは、スワロフスキー・デザインのクリスマスツリーが飾られ、光と音楽の演出の中を雪が舞い、1階から5階のバルコニーまで埋め尽くした人々が喝采を送っていました。

12月26日、CELICAさんお薦め青山のavex前のツリー。
これからクレーンで撤去するところ。クリスマスが終わったあとの光景、少し淋しくもあり。

淋しいといえば、赤坂東急プラザの地下にある「リュウキュウアーユーを食べる会」という、鮎ラーメンのお店が明日で店じまい。今夜は「惜しむ会」をやりました。

<若女将を中心に記念撮影>

<あゆらーめん(チョットピンボケ)>



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